なぜ、私たちは「Freude!」と歌うのでしょう
2026年8月16日
8月16日、最初のレッスン
まだお盆休みの8月16日。午前10時から、200人を超える皆さんにご参加いただき、「一万人の第九」のレッスンが始まりました。全国にたくさんあるレッスン会場の中でも、主催者側にとってこのクラスが今年最初のレッスンとのことでした。
簡単に自己紹介をし、ピアニストの辻本さんをご紹介したあと、私は皆さんにお願いしました。
「では皆さん、まずご起立ください。
いまから私が申し上げることを、なさってみてください。
どうぞ皆さんの左右、前後にいらっしゃる方々と握手をして、お名前を交換なさってくださーい。」
会場がざわつきます。でも、すぐにあちらこちらで手が差し出されました。
「よろしくお願いします」
「○○です」
それまで静かだった会場に話し声が広がり、皆さんの顔に笑顔が生まれました。
「ありがとうございます。
いまの瞬間。これが、第九が歌い上げようとしている真髄です。
さっきまでこの会場は、まるでエレベーターで見ず知らずの人と一緒になったときのような居心地の悪さだったでしょう。
人はたくさんいる。でも話さない。目も合わせない。
ところが、握手をして名前を交換した。
たったそれだけで、人と人との輪が広がって、皆さん笑顔になった。
その喜びです。
まさに、Alle Menschen werden Brüder. です。」
まだ一音も歌っていません。でも、私の第九のレッスンは、もう始まっています。
12回後には、ベートーヴェンが「かけがえのない人」に
「すでに第九を数回歌ったことのある方、挙手願います。」
4分の1から3分の1くらいの方が手を挙げてくださいました。
「では、全く初めての方は?」
今度は3分の2ほどの手が上がりました。
「経験者の皆さんのご参加、嬉しいです。どうかこのクラスを歌唱面でリードしてください。
そして初めての皆さん。
第九の楽譜を手にしてここへ来られて、不安でいっぱいのことでしょう。
でも、ご安心ください。
私と一緒に12回のレッスンを重ねたら、何となく歌えるようになっていますから。」「12回のレッスンが終わったら、ベートーヴェンが皆さんにとってかけがえのない人になっていることでしょう。
それが、私のレッスンの目標でもあります。」
第九を歌えるようになる。もちろん、それも目標です。でも、それだけではありません。12回かけて、一人の人間、ベートーヴェンと出会ってほしいのです。
「お上手ですね」
簡単な柔軟体操のあと、発声練習に入りました。
「では、Aの音で『アー』と始めましょう。」
皆さんが声を出します。
「そうです。では、お隣の方に、『お上手ですね』とお声がけしてください。」
また笑顔が広がります。続いて a-e-i-o-u。
「Ahでせっかくいい響きを作ったのですから、E、Iになって、その響きを逃がさないようにしましょう。
口や口の奥の形を、なるべく大きく変えないように。
oでは口を縦にします。
そしてUは、そのOの響きを失わないようにしてください。
一つ理解していただきたいのは、日本語の『う』は浅い響きです。
ドイツ語のUは、深い響きです。」
発音のために響きを犠牲にしてはいけません。いい響きを持ったまま、次の母音へ進んでいきます。
さあ、第九の楽譜を開きましょう
「では、楽譜を開きましょう。練習番号Dを開いてください。」
そこにはAltと書いてあります。
「有るとなしでは、大違いです。」
そしてTenor。
「tenは、10人で歌えという意味ではありません。」
さらにBass。
「これは、バスに乗って歌ってくださいではありません。」
Sopranoは?
「ここでは登場しない、ではなくてAltを一緒に歌いましょう。」
初めて第九の楽譜を開いた方にとって、この分厚い楽譜はそれだけで怖いものです。ですから、まず笑っていただきましょう。楽譜は怖くありません。
発音は書けません
練習番号Dの歌詞を、みんなで声に出して読みました。
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.
何度も、何度も繰り返します。見ると、少なからずの方が、私の発音をカタカナで楽譜に書こうとなさっています。
「皆さん、発音を書こうとなさっていますね。
でも、発音は書けません。
それより大切なことがあります。オウム返しです。私が言います。皆さんは、そのまま真似してください。まず、Deine Zauber。
Zauberを『ツァウバー』と書こうか、『ツァウベル』と書こうか――そんなことを一生懸命考えなくていいんです。どっちでもいい理由は・・・。
大切なことがあります。Zau-berは二つの音節でしょう。Zauが強く、berは弱い。二つとも同じ強さで読まないでください。強い音節と弱い音節、その言葉のリズムを私のあとについて真似してください。-berの発音は弱い音節ですから、あまり神経質にならなくていい、というのが「どちらでもいい」の理由です。次は、binden wieder。
bindenのbは破裂音です。そしてwiederのwは摩擦音。でも、子音をはっきり発音しようとして頑張りすぎないでくださいね。bを強く破裂させすぎると、そのあとの母音まで硬くなってしまいます。
美しい響きで歌うためのドイツ語を練習していきましょう。次は、streng geteilt。geteiltは、ここでは『厳しく分断された』という意味です。語尾のlやtを曖昧にしないで「分断」という厳しい語感を大切にしましょう。
そして、Alle Menschen。AlleはAl-leと二つに分けてみると、ずっと言いやすくなります。『あれ?』ではありませんよ(笑)。私の口を見て、耳で聞いて、そのまま返してください。
werdenも、どうカタカナで書けばいいんだろう、と悩み始めたら大変です。『ヴェルデン』なのか、『ヴィアデン』なのか……。まずは、オウム返しです。
そしてBrüder。これもBrü-derと二つの音節に分けて読んでみましょう。今日は、ここにベートーヴェンがどんな思いを込めたのかという話まではしません。まずは、読めるようになること。
私が言う。皆さんが返す。もう一度、私が言う。皆さんが返す。何度でもやりましょう。
ドイツ語を見て、『こんなの私には無理だ』と思わなくていいんです。書こうとしない。まず聞く。そして、そのまま口から返す。それを繰り返していると――ほら、もう読めているでしょう。」
お坊さんがお経を唱えるように
「では、いま読んだ言葉を音符に載せましょう。
このメロディーは、皆さんよくご存じでしょう。
でも、いまは大きな声はいりません。
小さな声で、そっと歌ってみましょう。
一つ一つ切らないでください。
そうですね……まるで、お坊さんがお経を小声で唱えているように。」
言葉の流れを止めない。一音一音を立派に歌おうとしない。まずは、言葉と旋律が自然につながることを経験してもらいます。
「休憩です。帰らないでください!」
レッスン開始から約1時間。
「では、ここで休憩しましょう。休憩です。帰らないでください。」
「戻って来られたら、なぜFreude!と言わなければならないのか。その思いを、皆さんと一緒に探っていきますからね。」
しまった!
休憩後。
「ではレッスンを続けましょう。
練習番号Dの前に、バリトンのソリストと合唱が掛け合うところがあります。
そこを開けてください。やってみましょう。」
ところが――反応が薄い。
しまった!
初めて第九を歌う皆さんは、どこを見ればよいのか分からないのです。楽譜は急に合唱部分が二段譜になります。経験者には当たり前でも、初心者には「上を見るの? 下を見るの?」となって当然です。
私はその説明をしていませんでした。指導者として配慮不足でした。きちんと楽譜の見方を説明して、もう一度始めました。32年間やっていても、こういうことがあります。初心者の目線を忘れてはいけません。はい。
「あ、読める!」
続いて、
Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligtum!
ここでも、まず私のあとについて読んでいただきました。
「Götterfunken。funkenのfは摩擦する音です。先ほどwiederのwでもやりましたね。音そのものは同じではありませんが、息を摩擦させる感覚を持って、少し長めに作ってみましょう。
次はTochter。このchは日本語にはない響きです。皆さんがお魚料理を召し上がっていて、魚の骨が喉の奥に突き刺さった。それを何とかしようとして、喉の奥でch……とやる。あの感じです(笑)。では、Tochter。もう一度。はっきり発音すると、なんだかどんな娘さんなの、と思ってしましますね。
そしてHeiligtum。ここのgの音は、ドイツ国内でも地方によってkと発音するようです。ここでは『ハイリッヒトゥム』でいきます。はい、もう一度。」
ここも意味の説明は後回し。まず発音だけに集中して、何度もオウム返ししました。そして小さな声で、音符に載せます。
音楽が先へ進みました。まだ一度も練習していない箇所です。でも皆さん読んでいるのです。そうなんです、休憩前に練習した練習番号Dと同じ言葉なのです――皆さんの表情が変わります。
Deine Zauber binden wieder…
Was die Mode streng geteilt…
読める。これも読める。休憩前に何度も練習した言葉です。しかも歌える。皆さんが嬉々として歌っています。そして練習番号Dに続けられたときの皆さんの大きな声。
私の心の中では、してやったり!! です。
「ドイツ語は難しくありません」と説明するより、「あれ? 私、読めた」「私、歌えた」と自分で経験する。第九に対する不安を取り除くには、そのほうがずっといい。大成功でした。
「ソリストのところも歌ってください」
「経験者の皆さん、バリトンソロが最初に歌う部分を、一緒に歌ってください。」
皆さん、唖然。そんなこと、今まで言われたことがない。そうでしょうね。
「自分が歌うところではないから関係ない、では済ませていらっしゃいませんか。
一つの作品を、皆で作り上げるのですから。立派に歌う必要はありません。
でも、ソリストが何を歌っているのか、口真似くらいはできなければいけない。
自分が歌っていない時間も音楽なんです。
それがアンサンブルの妙です。」
なぜ「友よ、こんな響きじゃない」なのか
そして、いよいよ休憩前に予告した話へ進みました。
O Freunde, nicht diese Töne!
「友よ、こんな響きじゃない。」
「皆さん、これはシラーの言葉ではありません。ベートーヴェン自身の言葉です。なぜ彼は、わざわざこの言葉を書き入れたのでしょう。
その謎解きをしましょう。
そのためには、第4楽章がどのようにできているのかを知らなければなりません。
辻本さん、第4楽章の頭から弾いてください。途中で私が言葉を挟みますが・・・。」
恐怖のファンファーレ
「まず最初の和音を聞いてみましょう。
辻本さん、右手のきれいな和音をお願いします。」
きれいな響きです。
「では、左手の恐ろしい音を。」
低い、不気味な響き。
「では、同時に鳴らしてください。」
不気味な響きが生まれます。
「ワーグナーはこれを『恐怖のファンファーレ』と呼んでいます。」
そのあと、低弦が叙唱風に語り始めます。
「皆さん、楽譜に『叙唱風に』と書かれていることに注目してください。
オペラなどで使われる言葉です。
難しく考えず、言葉を並べてセリフを語るように、という音楽用語だと思ってください。」
後の研究によって、ベートーヴェンがこの部分を考えていた過程で、言葉を伴う構想を持っていたことも分かっています。その内容は、「こんな響きじゃない」「もっと心地よい音を」という趣旨のものです。
つまり、このチェロとコントラバスは、まだ人間の声が登場する前から語っているのです。
全部、違う
「辻本さん、先へ進めてください。」
第1楽章の冒頭。混沌とした音楽が顔を出します。でも、ベートーヴェンは否定する。これではない。
第2楽章の快活な音楽。これも否定。
第3楽章の優美な旋律。これも違う。
そして驚くことに、これから第4楽章で歌われる歓喜の歌のテーマさえ、一度は否定する。
全部違う。では、彼は何を求めているのでしょう。」
「あなたの音楽は立派よ」
全否定したあと、チェロとコントラバスが静かにあの旋律を奏でます。
「これ、本当に『歓喜の歌』に聞こえますか?
私には、喜びの歌というより、哀歌に聞こえます。」
ところが、そのあとです。ファゴットとヴィオラが、そっとその哀歌に寄り添います。オーケストラの中でも、決して派手な音色の楽器ではありません。
「大声で励ますのではない。ただ、『あなたの音楽は立派よ。』とでも言うように、そっと隣に寄り添いに来る。
私は、第九の中でこの瞬間が一番感動的なシーンです。
遠くから自分を見つめ、寄り添ってくれる人がいたことを知る。」
やがてその輪に、大人数のヴァイオリンが加わります。管楽器も加わる。打楽器も加わる。輪はどんどん大きくなります。
それでも、まだ足りない
ここまで来れば、「これでベートーヴェンの思いは成就した」と思うでしょう。ところが――再び、恐怖のファンファーレ。まだ違うのです。
そしてついに、人間の声――バリトンに語らせます。
O Freunde, nicht diese Töne!
「友よ、こんな響きじゃない。」
「私はこう解釈しています。
ベートーヴェンは器楽の作曲家として大成功した人です。でも、最後の交響曲に至って、器楽だけではもう足りなかった。
人間の声で、言葉を直接伝えたい。音楽を奏でる喜びを、人間自身の言葉で伝えたい。
そういう境地に達したのではないでしょうか。だから、交響曲の中へ人間の声を入れた。そして、その声が求めるものが――Freude!なのです。この言葉のために彼は第九を作ったともいえるのです。」
―― なぜ、人間の声が必要だったのか(補記) ――
この問いについて、一つの言葉ではとても片づかない気がして、後日あらためて考えを整理してみました。理由は一つではなく、いくつかが重なっていたのだと思います。
一つは、音楽そのものの限界です。器楽はどれほど感情を揺さぶっても、『喜び、すべての人々は兄弟になる』という、はっきりとした理念や宣言そのものを、言葉なしに伝えることはできません。それを人と人との間で直接分かち合うには、声と言葉が要ったのでしょう。
もう一つは、彼自身の孤独です。耳を失っていく人間は、他人の声を聞くことも、言葉を交わすことも、少しずつできなくなっていきます。ベートーヴェン自身が失っていったもの――それを、彼は音楽の中でこそ取り戻そうとしたのかもしれません。一人の孤立した人間としてではなく、大勢が声を交わし合う合唱という場に、自分の理想を託した。
そしてもう一つ。18歳のとき、ボン大学でシラーの詩に出会い、何十年も温め続けた思い。器楽だけでは、あの日、詩の言葉そのものに感じた感動を、そのままの形では伝えられません。いつか、あの言葉自体を声にしたい――第九は、その若い日の約束を、人生の最後に果たした作品だったのかもしれません。
でも、なぜ「喜び」なのか
第8交響曲から第9交響曲まで、およそ12年。
私はこの時期を、社会との接触という意味で、ベートーヴェンの「引きこもりの12年間」と捉えています。
もちろん、12年間家に閉じこもって何もしなかった、という意味ではありません。
耳はますます聞こえなくなる。人との自然な交流は難しくなる。作品は、より内面へ向かっていく。
そして家族の問題もありました。弟の死。残された甥カールをめぐる母親との長い後見権争いの裁判沙汰。
ベートーヴェンは、カールのために良かれと思ってやったのでしょう。しかし、その強い思いはカール自身にとっても大きな重圧となりました。やがてカールは自ら命を絶とうとするところまで追い詰められます。経済的にも困窮し、出版社に借金するほどでした。
ベートーヴェン自身もまた、大きな苦悩の中にいたことは間違いないでしょう。
そんな人が、最後の交響曲で、人間の声を必要とした。そして、Freude! と呼びかけるプランを練っていたのです。自作の言葉「友よ、こんな響きじゃない・・・・」は、「友よ、俺はこんなじゃない・・・」とも聞こえてきませんか?
皆さん自身の人生から、Freude!
「皆さんの人生も、決して順風満帆ではなかったでしょう。
いろいろなことがあったことでしょう。中には、いまそのまっただなかの方もおいでかもしれません。
でも今日、私たちはここに集っています。
そして一緒に音楽を奏でようとしています。
ここに集い、音楽を奏でる恵みと導きを得たことの喜び。それが、皆さんのFreude!であってほしいのです。
ソリストが歌うFreude!は、一人の人生です。
でも合唱で参加する皆さんのFreude!には、一人ひとり違う人生がある。
本番なら、それが何千人にもなる。
だから合唱のFreude!は、ソリストのFreude!の何千倍にもなってほしい。
でも勘違いしないでください。
何千倍というのは、音量ではありません。
隣の人より大きな声が出せたら勝ち、ではないのです。
それぞれが、それぞれの人生を持って息を吸う。
そして一緒に、Freude!と声にする。
私は、そんなFreude!を聴きたいのです。」
第1回を終えて
朝、この会場に集まったとき、200人を超える皆さんの多くは知らない人同士でした。
まず握手をしました。名前を交換しました。「お上手ですね」と隣の人に声をかけました。初めて見るドイツ語をオウム返ししました。小さな声で歌いました。
そして、「あ、読めた。」「歌えた。」という小さな喜びを経験しました。
そのあとで、ベートーヴェンが長い苦悩の果てに求めたFreude!を一緒に考えました。
第九は、隣の人より大きな声を出すための音楽ではありません。
一人では作れないものを、知らなかった人同士が集まって、一緒に作る。その輪の中にいられること。そのこと自体が、すでに一つのFreude!なのではないでしょうか。
そして12回のレッスンが終わったとき――皆さんが第九を「何となく歌える」ようになっているだけでなく、ベートーヴェンという人が、皆さんにとってかけがえのない人になっていること。
それが、私の願いです。
―― 第1回レッスン 終わり ――